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宮地家先祖と「正中の変」

宮地家は「正中の変」に深くかかわっていた

以下、「正中の変」について、Wikipediaからの抜粋

後醍醐天皇は
父・後宇多法皇に代り元亨元年(1321年)から親政を開始し、
記録所の再興などの政治を始める。
後宇多法皇は死の間際まで
皇太子の邦良親王を大覚寺統の嫡流として、
後醍醐天皇にゆくゆくは邦良親王への
譲位を行うように命じていた。

元亨4年6月に法皇が崩じると、邦良親王はさっそく
後醍醐天皇に譲位を行わせるべく鎌倉へ伺いを立てる。
また、持明院統も邦良親王の即位後に量仁親王を皇太子に
することを条件にこれを支持していため(文保の和談)、
鎌倉幕府もこの線で皇位継承を早晩行うことを決めた。

しかし、
いよいよ自身の思いの通りの政治をすることを
期待していた後醍醐天皇は、
自分の立場が中継ぎの天皇にすぎないことを知ると、
邦良親王や持明院統はもとより、
幕府に対しても激しく反発した。

そこで後醍醐天皇は、六波羅探題南方・大仏維貞が
鎌倉へ赴いている隙に討幕を行うことを企て、
これをうけて側近の日野資朝や日野俊基らは諸国を巡って
各地の武士や有力者に討幕を呼びかけるに至った。
当時は畿内をはじめ各地で悪党の動きが活発になっており、
また奥州では安藤氏の乱が燃え上がって
得宗家を震撼させていた背景もあり、
こうした政情不安に乗じて
後醍醐天皇は倒幕という承久の乱以後絶えてなかった
具体的な行動を模索したものと考えられている。

しかし、9月19日には六波羅探題の察知するところとなる。
密かに上洛していた土岐氏の当主の土岐頼貞と頼兼父子と
一族の多治見国長、足助氏の当主の
足助貞親(加茂重成)のにもとへただちに討手が差し向けられ、
四条付近で激しい戦闘が行われた末に
両将を自害に追い込んだ。

六波羅の追及は朝廷にも及んだが、
資朝・俊基らは自ら罪をかぶって鎌倉へ連行された。
資朝は佐渡島へ流刑となり、
俊基は赦免されて帰京したが以後は蟄居謹慎の日々を送った。

一方、後醍醐天皇は側近の万里小路宣房に
釈明書を持たせて鎌倉へ下向させ、その甲斐あってか
今次の変とは無関係ということで咎めはなかった。

軍記物語『太平記』では
巻一に正中の変の顛末が記されており、
無礼講の名目のもとに行われた倒幕の密議や、
計画に加担していた土岐一族の頼員(舟木頼春)が
ある夜妻に計画を漏らしてしまったことから
事件が露見したこと(頼員の妻の父斎藤利行は
六波羅探題の奉行だった)などが記されているほか、
西大寺系の律僧も参加していたことが記されている。

後に建武の新政において役職を務める
伊賀兼光や律僧の文観の関与も指摘されている。
(以上、Wikipediaからの抜粋)


(以下、瑞浪市文化財資料からの抜粋)
https://www.city.mizunami.lg.jp/docs/2014092903611/
(瑞浪市スポーツ文化課・文化振興係)

土岐頼兼は、室町幕府の
初代美濃国守護となった土岐頼貞の十男といわれ、
兄の頼遠が家督を継いで長森(現・岐阜市)に移った後、
土岐町に所在する鶴ヶ城(神箆城・こうのじょう)
の城主となったと伝えられます。

正中元年(1324年)、
鎌倉幕府を追討して王政復古を望んだ後醍醐天皇は、
側近の日野資朝、日野俊基らと謀って密かに兵を募りました。

この挙兵に応じた頼兼は一族の
多治見国長、船木頼春、深沢定氏、尾里国定、
萩原国実、猿子国行、市原国宗らを率いて京都に上がりましたが、
一族の土岐頼員が不用意に
妻(六波羅探題奉行・斉藤利行の娘)に漏らした一言から
幕府方の知るところとなり、
六波羅探題からの急襲を受けて一族は討ち取られ、
企ては失敗に終わっと伝えられています(正中の変)。

討ち取られた頼兼の首は京都の三条河原に晒されていましたが、
家臣の根竹十郎がこれを奪って帰り、
自らの館、根竹集落(現・土岐町桜堂)の見える高台に
頼兼の首を葬り、自刃したといわれます。

頼兼の墓は、
鶴ヶ城の北東約500mの自刃洞と呼ばれる山中に所在し、
宝篋印塔2基と五輪塔3基が残されています。

なお、土岐頼兼に対しては、明治38年(1905年)に
正四位が贈位されて名誉回復がなされ、
昭和24年(1949年)には鶴ヶ城の山頂に
頼兼を祭神とする土岐神社が創建されました。

以上
瑞浪市文化財資料(スポーツ文化課・文化振興係)
からの抜粋



宮地兵次郎の家の近くには
宮地重勝頌徳碑がある
昔からあった石碑(左)を昭和28年に再建(右)


宮地重勝頌徳碑


宮地氏ハ代々土岐氏
ノ臣ニシテ天文十一
年頼芸亡ブルヤ鶴ケ
城代宮地九郎左衛門
藤原重勝半原自邸ニ
隠遁シ農ニ帰スコレ
即チ祖ナリ
昭和二十八年十月再建之
------------
天文11年=1542年
昭和28年=1953年


後醍醐天皇 御綸旨箱
正中元年
土岐十郎頼兼 受賜

(土岐頼兼は別名(通称)土岐十郎と言った)
https://ja.wikipedia.org/wiki/土岐頼兼

後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕を呼びかける書を
御綸旨箱に収めて土岐氏に送った。
御綸旨箱とは、
十六弁の菊紋と五七桐を箱の表面に描いた
表面黒漆器塗・内面朱漆器塗の
木箱(約51x12x4cm)である。

由緒詳細は
別頁(宮地家の由来)
に掲載した。

鶴ヶ城など関係写真は
別頁(関係写真)
に掲載した。


(以下、管理者用)
20191021-501,502,503,504,505,506
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