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宮地兵次郎
宮地家の由来














宮地氏伝記大要











(宮地氏傳記大要)

宮地氏は藤原氏より出て世々北面の武士であった。
(北面武士(ほくめんのぶし)とは、
院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、
あるいは御幸に供奉した武士のこと。)

永保年間(1081年-1084年)故有りて多田伊豆守源國房の家臣となる。
國房五世の孫光衡が美濃の守護となると従って此國に来た。

光衡より数世を経て土岐伯耆十郎頼兼の世に
宮地八郎左衛門藤原光貞と言う者が頼兼の老臣であった。

正中元年(1324年)後醍醐天皇が北條高時を誅せんと給(たま)いし時、
頼兼は密勅を奉して、支族多治見四郎國長と共に北條氏を討たんとして
謀泄(計りごとが漏れること)し却て
北條氏の逆襲に遇い、京都三条堀川の邸に於いて戦死した。

この時、光貞は土岐に在り變(事変のこと)を聞いて大いに怒り
土岐氏の郎黨を率いて主君の仇を復せんとしたれども
北條氏の勢強勢にして到底事の成らざるを察し
怨を呑みて時機の至るを待った。

時に西濃なる土岐氏の一族の頼兼の甥に当たる
土岐弥太郎源頼秀と言う者が土岐に来て鶴ケ城の主となるや
光貞又之に事えて益忠勤を晝せり。

その後二百余年を経て頼兼九世の孫の土岐左衛門太郎源頼藝
(当時山縣郡大桑城に在りて当国を領す、即ち土岐氏の本家なり)
(大桑城の所在地
岐阜県山県市大桑 岐阜市の北12km 県道174号線沿いに道標がある。)
の代に至って、宮地九郎左衛門藤原重勝は世々土岐城に
老臣たるの故を以て假(かり)に土岐城の城代を命ぜられ
半原の巽(たつみ)の境に邸宅を構え、
土岐城に参勤し同僚の老臣、安藤某・遠藤某・山内某・等と土岐城を治めた。
(屋敷の舊跡は今尚田甫中に木戸口丸の内馬塲崩又矢口等の名を存せり)

時に天下は所詮戦国の世にして君主の分義大いに乱れ、
天文十一年(1542年)頼藝の老臣長井新九郎と言う者(後に斎藤道三)
が君主頼藝を弑(し)し悉く(ことごとく)
土岐氏の一族を亡ぼし当国を奪えり。
頼藝死に臨み一書を土岐の四元老に贈り
情を述べて此怨恨を報ずべきを命じて世を終れり。

四老命に依て逆臣斎藤氏を亡ぼさんとしたれども事未だ成らざるに、
隣国尾張の大守織田信長美濃に侵入して
斎藤氏を亡ぼし國を領す。

四元老は自主家の仇を復する能わざるを遺憾としたれども
必竟信長に依て主敵の斃(たおれ)たるを幸として
各近郷に隠れて互いに主家の冥福を祈り、
重勝は半原の自邸に退隠して農に帰し、以て主家の菩提を吊ひ
静に世を送れりと言う。

是れ即ち宮地氏の祖先の傳記にして土岐氏滅亡より此に至る。
殆(ほとんど)二十三年後の永禄七年(1564年)なり。
宮地九郎左衛門忰(せがれ)彦左衛門也


宮地氏家系図

明治30年3月再調査






明治34年4月再三調査




昭和19年3月再調査











(上段=表面、下段=背面)
(注:一代市之亟の背面の名は一致せず理由不明)



(上段=表面、下段=背面)



(上段=表面、下段=背面)



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