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宮地兵次郎
中山道(中街道)

瑞浪市教育委員会発行、瑞浪市史、
近代編、交通・鉱工業、H.21年3月より
p17・p18・p19を引用させていただいた。

中街道開削の記
(宮地兵次郎の関係部分)

中切半原宿本郷常柄次月





中山道の中街道の開削について

以下
瑞浪市教育委員会発行 資料
瑞浪市史 近代編 交通・鉱工業 平成21年3月
より抜粋・転記しました。

(二)中街道
中切〜半原〜宿〜本郷〜常柄〜次月


前記の『晴雨日記』から中街道開削の様子を拾ってみると、
次のようになっている。

明治十四年五月四日 御嵩へ新道之開く義、井尻より三佐野迄は四月
十一日に縄張り致し夫より取り掛かり二十日迄に出来致し候由、日吉、
半原もこの節取掛り候様子に付、釜戸村集会議の上今日取極致也
  二十日半原村新海道今日より道作り始る也
六月十四日新道作り始る也、中切より入口
八月 三日 二日より御嵩新道作り始る也 旧陣屋、藪の中より作り
      始め半原堺(境)迄作る也 五月二日、三日、四日、五日、
      六日、七日〆六日の間 起工人 起工人長 加勢悦喜 宿
      溝口喜一 公文 河合玉三郎、中切・桜井正次
<以上p17>

明治十五年七月四日 御嵩駅へ通行新道開通式

この中街道の開削にあたっては、『中街道開削之記』(小川鈴
一ノート)として残されているように、一触即発の危険な対立
を含みながら進められた。


中街道開削の記

御維新以来社会の進運と共に交通の機関は益々備わり海に汽船を浮べ
て海運を計り陸には汽車を設け以て萬般の運輸を掌る 其他郵便電信あ
りて以て書信の往復を便にし山岳を貫いて道路を開き橋梁を架して大河
を渡り如何なる山間僻地も漸次車声の麟々たるを聞くに至れり(中略)
美濃国を東西に貫通する中仙道の中可児郡井尻村より恵那郡大井駅に達
する数里の間は山岳起伏し、(中略)所謂十三峠の嶮道にして本道中有
名の難関なれば到底開明の今日に用ゆるの道路にあらざるなり、弦に於
てや、当該官庁に於も本邦中有数の国道にして斯くの如き嶮路あるは時
世の進化に阿はざるものなしと、時は明治十四年二月十四日即吾岐阜県
庁の土木課長木村直実を遣わし属官四・五名をして之に随行せしめ先可
児郡を説せしむ 県官等命を奉じて直に出張り忽ち沿道を承服したる後
御嵩の豪家野呂萬次郎其地郡中の有力数輩を率いて釜戸村に来り 同所
の旅舎土岐屋治郎平方に宿泊して沿道中の大部分たる日吉村戸長宮地兵
次郎氏及び柄石・本郷・南垣外・宿・半原各組の重立たる人民を召還し

之を諭すに新道開設の事を以てす 即いわく 可児郡御嵩村の中井尻よ
り土岐郡釜戸村に至る数里の間は往古鎌倉街道の道筋にして即古くの国
道たり 慶長以来世は徳川の世に移り而事社会の変遷と共に此中の街道
も亦其余勢を蒙り是を変換して今の大漱・細久手の二駅を設けたりと雖
も此道たるや已に世人の知る如く坂路甚だ多きを以て連も今日の国道に
適せず 依て此間を往古の鎌倉街道に従い再び道路を開設して以て交通
の利便を計らんと欲し県庁は吾等吏員を遣わしたるなり 沿道の人民た
るもの宜しく此主旨を奉載し速に新道の開設を出願し以て此は天下の公
益を資し此は以て地方の開進を計るべしとの意を示せり 是に於てや召
喚を受けたるの名々は一同其旨を組々へ伝えると同時に戸長は全村へ協
議をなしたる処日吉村北部の七組は凡て一体に不服を唱え 殊に細久手
駅は之が主唱となって大に之に反抗し 昼夜役場へ押寄せて非常に拒
絶を主張し一方に於ては直に郡衙に向て哀情を訴願し中々容易に開墾な
さしめまじきの景勢にて遂に戸長宮地兵次郎氏の居宅を焼き払う等の落
を為して充分脅嚇の威を示し 其外種々不穏の挙動を以て極力之を
妨害を力めしかば其筋に於ても捨置き難く 遂に巡査を役場へ派出して
其年二月より四月下旬に至る殆ど六十余日間昼夜警戒を怠らざるの有様
にて事態頗る騒憂を極めたり 何分慶長以来殆ど三百有余年東西交通の
要路なれば人馬の往来随て繁く沿道の宿駅は皆之に依て衣食したるもの
なり 然るを一朝之を廃道となすに於ては細久手全駅の死活に関するの
問題にして之を否むは一応理なきに非ずと雖も諺に所謂小の虫を殺して
大の虫を助くると云う事あり 今や交通頻繁の時世に当て掌大の細久手
<以上p18>


人民を救うが為に天下幾多の公益を捨つるは理に於て然る可らずとなし
 戸長宮地兵次郎氏は有志の人々と共に前記不穏の挙動あるにも係わら
ず奮って一身を犠牲に供し以て之が成功を期し 明治十四年三月下旬よ
り本郷組安藤政助 小栗鉾三郎 半原組村瀬健二等の有志に命じ百難を
排し萬苦を忍び遂に開設の願書を認め郡役所を経て県庁に差出さしめた
り。(後略)
(「小川鈴一氏ノート」)

このように、中街道の開削は、細久手・大漱の両宿をはじめ
中山道沿道の人々にとって死活問題であった。そのため、この
影響を受ける村々では、関係役所に哀願したり、戸長宅を焼き
払うぞとばかり相手の村を威嚇したりして
必死にこれを食い止
めようとしたが、徒歩や乗馬による通行は過去のものとして、
時代にあった道の必要性を説かれ、ついにこの案を飲むにい
たっている。
こうして、明治十五年(一八八二)五月、道路延長およそ
一六キロメートル、総工費七五八四円四〇銭六厘で完成した。
<以上p19>


新道開削願













中街道の絵地図
(土岐郡日吉村図面)
柄石〜本郷〜南垣外〜宿〜半原〜釜戸
などの記載が見える










中街道開設総計表
明治14年4月13日着手 同15年5月 日竣工

可児井尻・同中切・同宿・同美佐野・同次月・
土岐日吉志月・同同共有山・同同柄石・
同同本郷・同同南垣外・
同同宿・同同半原・同土岐・同釜戸

宮地兵次郎の住所半原では
段別=118町8反4畝11歩
地券代価=13506円70銭
戸数=67
人口=376
道長=1022間3尺
潰地段別=7反1畝28歩
買上代価=105円44銭
工費=757円67銭 ・・・
費額計=7584円40銭6厘 などとなっている



(原本・宮地兵次郎所有)


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